21.分子進化の中立説

 

 定説への疑問

 タンパク質に関心をもつ立場として、分子進化の中立説について私の考えを一言述べてみたい。タンパク質の分子進化は、原始前生物環境で自然選択説に依拠して進行したと考えている。その後、異種間の生物でのタンパク質は、その分子系統樹をさかのぼっていくと、やがて構造や機能に必須なアミノ酸残基を含む祖先タンパク質にたどりつくといわれている。しかし、この祖先タンパク質が必須のアミノ酸残基をどのように獲得したのかの説明が分子進化の中立説にはまったくなく、何の前触れもないままに忽然と生じたのだろうかという疑問が生じる。
 

 祖先タンパク質の起源を問う必然性

 中立説では、祖先タンパク質が変異を受けるのは構造や機能に関係しない中立的なアミノ酸残基であり、構造や機能に必須なアミノ酸残基の変異が厳しく制限されているという。そうであれば、このような必須のアミノ酸残基が瞬時に選択され、一挙に祖先タンパク質として創生されたことになる。それは常識的に考えても無理があり、これについて中立説は何も語っていないと思われる。私は、生命誕生以前に、祖先タンパク質の原型が存在しており、その創生までに長い分子進化があったはずで、当然その起源が問われなければならないと考えている。この祖先タンパク質の起源に、最初からこれをコードする遺伝子が存在していたのだろうか。私はそうは思わない。それは私が本書で終始注目してきた、原始前生物環境でのタンパク質の原型である短鎖ペプチド鎖複合体が、この祖先タンパク質の創生に深く関係していたと考えるからである。

 生命誕生以前の原始前生物環境で、すでに祖先タンパク質の原型にあたるタンパク性機能集団は存在し、その分子進化は、自然環境に適合するために自然選択説に基づいて長い時間をかけて行われた。そこには、構造や機能に必須のアミノ酸残基を分子内で獲得する過程が必ずあり、祖先タンパク質の原型が創生されたと考えている。分子進化の過程では、短鎖ペプチド複合体の構造の一部が、他の短鎖ペプチド複合体の構造の一部と交換したり、別の複合体が新たに結合したりしながら、絶えず、短鎖ペプチド複合体の構造と機能が有利な方向に進化したと考えている。特に、触媒性短鎖ペプチド複合体のアイデンティティーである基質特異性も、生成初期には特異性の低いものであったものが、アミノ酸配列と構造を変化させながら唯一の基質しか反応しない、という最も高い特異性を有する構造が選択されるに至ると、それを絶対的に維持するという逆の作用が働き、基質特異性に関係するアミノ酸残基に閂がかかり、高度に保存されたと考えられる。ほぼ完成されて閂のかかった機能構造に保存されたアミノ酸配列を、遺伝情報管理体制の細胞では、その情報が遺伝子に収納され、閂のかかった塩基だけが子孫に受け継がれ、それ以外の中立的な塩基部分の変異は、生物に多様化をもたらすことになる。これが私の分子進化の中立説に対する基本的な考え方で、中立説といえども、先に述べたように短鎖ペプチド複合体で獲得した祖先タンパク質の原型は、原始前生物環境で自然選択説に従って分子進化したものと考えている。
 

分進化の中立説への持論

 生命誕生後の遺伝子情報管理体制では、閂のかかった必須のアミノ酸は不変化して祖先タンパク質となり、構造や機能にさほど関係しない中立的なアミノ酸残基が変異に対して寛容になり、それが生物のアイデンティティーの指標となり、生物の多様性を促してゆくのである。これが分子進化の中立説の基本であると考えている。要するに、自然選択説とは生物個体は激しい生存競争に曝されており、遺伝子の変異はその生物の生存にとって有利な形質をもたらすものが固定され、もたないものよりも長く生き延び、その獲得した形質は次世代に遺伝していくという説であり、これが生物進化の基盤となっている。それに反して、生物個体のタンパク質においては、構造や機能に必須なアミノ酸残基は変異せず高度に保存され、直接関係のない中立的なアミノ酸残基だけが変異する。これが自然選択説と中立説の違いである。

 もし閂のかかったアミノ酸残基をコードする塩基に変異がおきると、転写されなかったり、機能する産物をコードしない偽遺伝子となり、機機能が欠損するのである。言い換えれば、遺伝子は基本的に、この閂にあたる機能部分に関係する塩基のみを確実に子孫に伝達する役割を担っているのである。

 開放系の原始前生物環境と閉鎖系の遺伝子で情報管理されている細胞では、タンパク性物質の分子進化はおのずと異なっていると考えている。原始前生物環境では常に自然選択論に基づいており、封鎖系細胞ではそれに遺伝情報を管理する遺伝子と祖先タンパク質が加わり、中立進化論に変わったと考えられる。この中立的なアミノ酸残基の変異は、生物の多様性を促す革新的な面もあるし、アイデンティティーに関係する祖先タンパク質を維持する保守的な面もあるだろう。
 祖先タンパク質の必須のアミノ酸残基の変異は、生物進化の過程で最も厳しく制限され、進化圧といわれているものである。私は進化圧がおきる原因として、次の二つのことを考えた。第一は、遺伝子の塩基配列がそれをコードするアミノ酸残基の重要性を認識して、塩基自らが変異を制限しているという考え方である。第二は、遺伝子情報から生産されるタンパク質自らが必須のアミノ酸残基の重要性を認識して、遺伝子の変異を厳しく制限してしまうというものである。私は後者であると考えている。前者では、DNAは不活性な物質で、そのアミノ酸残基の重要性を認識できないからであり、後者では、タンパク質側にその原因があり、タンパク質自身がその重要性を認識しているためであると考えている。私はどのアミノ酸が必須であり、どのアミノ酸が中立的であるかの判断は、原始前生物環境の開放系でDNAの関与のないタンパク質のみの分子進化の過程で、すでに点検が済んだものであると考えている。それを受け継いだ生物の遺伝情報管理機構は、基本的にいちいち点検する必要はなく、従って、原始前生物環境で祖先タンパク質の原型となる短鎖ペプチド鎖複合体の構造と機能の要になる必須のアミノ酸残基が、何の前触れもなく突如として出現したのではなく、分子進化の過程で自然選択説に基づいて、最も有効のあるものだけが必須のアミノ酸残基として選択され、その後、生物時代に祖先タンパク質に受け継がれ高度に保存されたと考えるのである。その典型的なものが、酵素タンパクの基質特異性に関与する活性部位を構成する、高度に保存されたアミノ酸残基である。その他の中立的アミノ酸の変異は、構造の崩壊と基質特異性の機能に影響しない程度で寛容であっただろう。
 

 分子進化の中立性の意義

私は、タンパク質の分子進化が中立的なアミノ酸残基のみを変異させるのは、生物のアイデンティティーを決定し、種特異性を明確にする手段にすぎないと考えている。ブドウ糖やATPのような低分子物質は種特異性はなく、すべての生物個体で共有されているが、タンパク質のような高分子物質は生物進化において、最初から種特異性をもつように設計されたのである。即ち、同じ機能をもつタンパク質が、アミノ酸残基の一部を変異することによって個体間の違いを明確にし、タンパク質レベルの特異性を生物個体の特異性に連動させたのである。いうならば、タンパク質は低分子物質よりも生物に一歩近づいていたことになる。その場合、タンパク質の構造と機能に必須なアミノ酸残基が変異することを絶対的に避け、それらに影響を与えない中立的なアミノ酸残基が選ばれたのは、当然のことである。逆にいえば、種間でタンパク質のアミノ酸配列が必ず異ならなければならないという思想は、生物の種特異性を拡大させ、生物の多様性を誘発したのかもしれない。タンパク質が100個以上のアミノ酸をもつ巨大な分子になった一つの要因が、この中立的なアミノ酸の変異の許容範囲を広げるために必要だったのかもしれないのである。

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