現在、「生命の起源」の研究において、ほぼ主流となっていると思われるのは「RNAワールド」仮説であるだろう。わたしは、この説に異議を唱え「タンパク質ワールド」仮説こそ、生命の起源であると主張すべく本書の執筆にあたった。
「生命の起源」の研究は、どこから手を付ければよいかわからないほど漠然としたものであるが、そこに研究の指針となるべき重要な物質を定めれば、研究の方向性がおのずと見えてくるだろう。私は、生体のすべての機能に関係するタンパク質こそ、その重要な物質であると考え、徹底したタンパク質研究を行うことにより、生命の本質を遠望することができると考えた。そこで本書では、原始地球環境においてタンパク質様物質がいかに出現し、分子進化を遂げたか、そしてそれらが後に細胞となる小さな密閉した袋の中で、原始タンパク質に進化しながら、困難な生命誕生をどのように導いたかについての考察をおこなった。 また、高分子核酸が出現する遥か以前の原始地球環境で、タンパク質様物質が単独で自然形成し、それがいかに分子進化して原始タンパク質が形成されたか、さらにその遺伝情報を遺伝子に伝達し収納したかについても追求した。
「生命の起源」というテーマは、我々人類にとって何か磁気的響きを持ち、惹きつけてやまない魅力がある。いかにして地球に生命が存在するようになったか、その研究に心血を注ぐ一方で、地球以外にいかなる生命体が存在するかを確かめるため、人工衛星が銀河系に向けて旅立ち、宇宙の隅々まで電波を送信して生命の生存の可能性を探る。そんなことを耳にすると、宇宙を一層身近なものに感じ、夢とロマンを駆り立てられる。地球というこの神秘的な生命を宿す惑星で、優れた科学的な成果を取り入れながら「生命の起源」を思索することは、無上の喜びである。
「生命の起源」への飽くなき探究
なかでも地球外生命の存在は、物質として水とアミノ酸を含む有機物質が存在するかどうかで判断できるとされている。アミノ酸は小惑星や、地球に降り注ぐ隕石などにも存在することが確認され、同時に生命の存在に決定的に重要であるとされている水が、太陽系惑星の中に存在する可能性が報道されたりすると、思わず生命の存在を連想してしまう。それが大々的に報道されると、日頃あまり科学に関心のない人たちにも広く注目されるところとなり、「生命の起源」の問題は一般の人にも潜在的に関心が高いものとなっている。
わが太陽系惑星で、アミノ酸の存在は随所で見出されており、アミノ酸からタンパク質に至る分子進化の間に、アミノ酸の重合体であるペプチドが存在する場合が予測されるが、この物質が他の天体に存在していることは全く実証されておらず、ましてやタンパク質の存在は皆無である。つまり、アミノ酸の存在は「生命の起源」における研究には必須であるが、それがあるといってタンパク質が存在するとは限らないのである。このように、アミノ酸とタンパク質の間の距離、さらにはアミノ酸と生命の間の距離は、遥かにかけ離れたものではないかと思っている。水やアミノ酸が他の天体に存在することが判明したとして、その惑星の自然環境で、どのような様式で生命の根源であるタンパク質が合成したか、あるいは地球でのタンパク質とは異なる物質が「生命の起源」となっているかどうかを探ることは大変興味深い。
生命の起源を研究するのに一番適している惑星は、何と言っても水とタンパク質、そして生命も豊富で、実験材料に事欠かないわが地球を置いて他にない。そこに目を転じて、研究に適したこの地球で、これまでに「生命の起源」の研究がどのように行われてきたかについて考えてみる。しかし、これに関しては、誰もが認めるような定説が存在しないのが現状である。そのなかにおいて、もっぱら「RNAワールド」仮説は広く認知されているが、これも多くの不確定要素が含まれており、すべての研究者が納得するところではない。
20世紀の最大の発見の一つは、DNAの二重らせん構造の解明であった。これにより遺伝子の本体はDNAという概念が生まれ、タンパク質はこの遺伝子の情報によって生成されることが明らかにされたのである。この結果、タンパク質は遺伝子の情報がなければ合成できず、DNAである遺伝子はタンパク質の機能がなければ作ることができないことがわかり、タンパク質とDNAの関係は鶏と卵の関係であり、多くの研究者の間で、どちらが先に出現したかというジレンマに悩むことになった。それが1980年代になってRNAに触媒作用があることが発見されたことにより、このジレンマを解消する切り札として原始的なRNAがクローズアップされ、「RNAワールド」仮説が生まれたのである。
RNAワールドからの脱却
DNAやタンパク質が出現する以前に原始的なRNAが出現し、原始的な触媒作用があると同時に同じ核酸であることからDNAのように自己複製し、原始的な情報を持っていたのではないかという推定で、この原始的なRNAが「情報」と「機能」という生命の根幹である働きをする能力を持っていたのではないかという考えのもと、多くの研究が始まった。研究者の多くは、原始RNAの二つの働きが相互に影響しあいながら生命誕生の最初の牽引物質になったのではないか、そしてこれら二つの働きがそれぞれ機能分化してDNAとタンパク質に分子進化したのではないかと考え、これをもって「生命の起源」の研究は一件落着するはずであった。これを基盤に研究していけば「生命の起源」の基本的な問題は解決するのではないかという楽観的なムードも一部あったように思われる。しかし、以後この「RNAワールド」仮説をよく検証すると、触媒作用もわずかな物質に限定されていること、複雑で多くの代謝系の生体反応を網羅するものではなかったことがわかり、また、DNAのように自己複製したり遺伝子を収納する可能性が見出されていないことなどから、その後この仮説に目覚ましい進展はみられていない。そして、それに伴って「生命の起源」の研究もある程度停滞していったと思われる。
今日では、この「RNAワールド」仮説に代わる新しい模索が始まっているようで、その一つが本書で示した「タンパク質ワールド」仮説である。タンパク質という物質は、自動制御組織体である生命のあらゆる機能に関係し、自律的かつ統一的に運営していくのに一番適した物質であることは確かだが、タンパク質のような稀有な性質を持つ物質が、いかにして地球上に存在するようになったのか、どう考えても答えは出ない。タンパク質様物質がなければ生命が誕生していなかったことは間違いなく、この物質が原始地球で自然生成されたことはほぼ奇跡に近いことだったと推測する。その謎を解明し、その分子進化を辿ることこそ、「生命の起源」研究で取り組むべき最初の課題であり、「タンパク質ワールド」仮説を解く所以でもある。
注目すべき「段階的合成説」
「生命の起源」の科学的裏付けとなるエポックメイキングな発見のうち、誰でもが納得する成果として、ミラーの原始地球環境でのガス状大気を想定した実験がある。メタン、アンモニア、水素などからアミノ酸などの有機物質が容易に生成されることを示し、「生命の起源」の研究にとって最も重大な発見となった。 タンパク質の進化には、大別すると次の二つの経路があったと推定される。一つは「直接高分子合成説」であり、もう一つは「段階的合成説」である。私が重視したのは、そのうちの「段階的合成説」である。そこでまず着眼すべき発見は、アミノ酸の重合体であるペプチドの合成が海底高温熱水噴出出口を想定した実験で、人工的に合成されることが見出されたことである。私は、ペプチドが原始地球の複雑な環境で奇跡的に合成されたことこそ、生命誕生の分水嶺であったと考える。このペプチドの合成は、ミラーのアミノ酸合成に匹敵するほどの重要な意義を持つものであるが、合成した短い鎖のペプチドから、どのような経路を辿って高分子の原始タンパク質が合成されたかについて、納得できる有力な説がまだほとんど出てこないことが不思議でならない。その原因として、生命にとって最も大事なタンパク質の分子進化の研究が、華々しい遺伝子研究の陰に隠れてしまったことも一理あるだろう。それがいまだに生体でのすべての機能に関係するたんぱく質の分子進化を説明するほどに、研究が進展しなかった要因であるのではないかと推測する。上述するたんぱく質とDNAとの関係のジレンマも、後遺症としてあるのだろう。
「段階的合成説」で論じたいのは、アミノ酸数が数個から十数個の短鎖のペプチドについてである。この短鎖ペプチドがその後のタンパク質様物質の構造構築と機能獲得に影響を与えたと考えており、その進化過程がタンパク質の分子進化にとって決定的に重要な段階であったことを、本書ではさまざまな角度から論じている。タンパク質の分子進化に短鎖ペプチドの概念を導入したのは、おそらく本書が初めての試みである。短鎖ペプチドが合成された後、多数のペプチドがベタベタと特異的に貼りつく会合により、タンパク質様物質が逐次巨大化していくという発想は誰でもが気が付くことであるが、それを誰も系統的に理論化しなかったのは何故なのか。本書でも、タンパク質がペプチドの集積体であることを随所で触れているが、アミノ酸からタンパク質の進化過程で、もっとペプチド段階に注目し重要視しておけば、タンパク質の複雑性も不均一性も、より掘り下げて説明できるのではないかと考える。
このペプチドが生成される場所として、世界各地の改定の高温熱水噴出口が注目されている。海底の熱水噴出口とその周辺の冷海水などの自然環境を想定したフローリアクターで数個のアミノ酸残基からなるペプチドが重合されることが実証された。実験室内でのこの短鎖ペプチドの生成は、ペプチドを重視する私にとってはミラーが行った原始地球環境での大気ガス状モデルを想定したアミノ酸やその他の有機物質の合成実験に匹敵するほどの研究成果であったと思っている。私がタンパク質の原型と想定しているのは、多くの短鎖ペプチドが会合して形成される巨大な短鎖ペプチド複合体なのである。
「タンパク質の自己複製」の可能性
一方、本書ではもうひとつ、このタンパク質進化における短鎖ペプチド段階説に匹敵するほど重要な仮説を打ち出した。それが、「タンパク質の自己複製」の可能性である。従来の説では、タンパク質はDNAと同じような自己複製はできないとされており、タンパク質の複製実験については二度と省みられることはなかった。しかし、私はタンパク質様物質のみで他のタンパク質様物質を複製する方法を探す必要があるのではないかと考えた。そこで、現存する細菌の特殊なペプチド性抗生物質合成の鋳型的多複合酵素系に注目し、それをヒントに研究をおこなった。もし、タンパク質様物質に自己複製の可能性があるとすれば、タンパク質様物質も情報と機能の二つの働きが備わっている可能性も考えられる。これは「RNAワールド」仮説で、原始RNAが情報と機能の二つの働きを持っているという発想から考え付いたことである。それに加え、タンパク質様物質の方が、RNAの機能と比べてはるかに多様な機能が備わっていると推定されるため、「生命の起源」の基本物質になる可能性がはるかに高いということに説得力がある。原始前生物環境でのタンパク質様物質の複製の可能性を示したのは、本書が最初であろう。
次に、私は原始前生物環境で生成された短鎖ペプチドの遺伝情報が、どのようにして長い分子進化の末、現存する細胞では高分子核酸であるDNAに遺伝子として収納されたかを考えてみた。ここでは、最初はタンパク質様物質にあった遺伝情報が、現存する細胞ではどうして物質的にまったく異なるDNAに転換したかを、タンパク質と高分子核酸の合成時期を比較しながら述べた。これは「生命の起源」の研究で、現在主流と考えられている「RNAワールド」仮説と、我々が主張する「タンパク質ワールド」仮説のどちらが正しいかを考査するため、両者を比較することも必要と考えてのことである。
タンパク質と高分子核酸の構造を比較すると、タンパク質はアミノ酸類のペプチド結合の重合体であるのに対し、核酸は塩基とペントースと憐酸で構成され、ホスホジエステル結合により重合しており、タンパク質の構造よりも複雑であることは間違いない。さらにそれらの合成時期は、まずタンパク質の場合、原始前生物環境の早い段階で、メタン・アンモニア・水素などの大気ガス状物質から自然生成されたアミノ酸類が、大気と異なる複雑で複合的環境である海底の熱水噴出口周辺でアミノ酸同士がペプチド結合し、アミノ酸残基が数個から十数個の短鎖ペプチドが生成したことが実証されており、私はこの短鎖ペプチドがタンパク質の原型であると考えている。一方、原始前生物環境で核酸を構成する塩基、ペントースなどは自然生成されたかもしれないが、核酸が高分子化するのに必要なホスホジエステル結合が自然生成するという報告には接していない。この結合反応には触媒機能をもつタンパク質の存在が必要であり、タンパク質様物質の出現の遥か後に合成されたと考えている。私は地球上では合成可能なものから順次合成されていくと考えている。この原則から、タンパク質の基本的な骨格の方が、原始前生物環境の前期に形成され、一方の核酸の重合化は触媒性のタンパク質が必要であることから、タンパク質様物質の生成よりも遥か後であると考えた。即ち、タンパク質様物質が早く合成され、それらの機能を利用して、遥かに遅く遺伝子創世のためにDNAが合成されたと考えた方が合理的なのである。このことから、「生命の起源」は「タンパク質ワールド」仮説の方が理にかなうと言える。
奇跡のタンパク質
私はタンパク質の分子進化について、本格的で系統だったものはまだないと思っている。「生命の起源」の研究の中で、タンパク質の研究が最も重要で中心的な課題であると考えられるが、原始地球でいかに出現したかについては、まだ不確定要素が多い。本書で述べている自身の考えは、タンパク質の分子進化の思索において、ある程度基本的な指針を示したものである。生命は、地球の海底の高温熱水噴出口で、アミノ酸の重合体であるアミノ酸残基数が数個のペプチドを生成したことにより誕生したといわれ、大いに注目されているが、それにも関わらずこのペプチドがその後どのような経緯でタンパク質に創生され、次いで生命が誕生したのかが全くのブラックボックスであった。本書で、ほんの僅かではあるがタンパク質がいかに創生したかの見通しを示しことは、タンパク質研究に一石を投じるものであり、その研究の進展が「生命の起源」研究に大きく寄与するものと考えている。
「生命の起源」における研究は、我々にとって夢のある魅力的な課題であり、解明しがたい様々な難点を抱えながらも、それを克服し将来の研究に結び付けるための努力が絶えず行われている。それは、これからも科学者が、世紀を超えて取り組んでいく大事業であるだろう。私は、タンパク質の分子進化を基軸に据え、忍耐強くかつ徹底的に研究を続けていくことが、この大事業をやり抜く最良の道であると確信している。生命の研究は、タンパク質と表裏一体の関係にあり、タンパク質をおいて他にない。